「続々 まがうとき =さよならと言わないで=」  あの時以来、私の愛車は大きな故障もなく順調に動いていた。この車 もあと1カ月で10年になる。  私の愛車と同じ型のスカイラインを持っている人々は、まだまだ多い。 この型は元来が丈夫に出来ているのだろう。  それでも周りにある同じ型のスカイラインは、そろそろボロが出てき たらしく良くみると色のあせや、細かい所に錆が出てきたりしている。 しかし、私の愛車は不思議にも色のあせや錆も無く、ときたま逢う近所 のスカイライン好きの人に羨ましがられていた…  「今日も美人だね」  シートカバーを取り、日の光を綺麗に反射させている白い車体に向か って、私は愛車に語り掛ける。  この愛車は故障こそしないが、助手席に若い女性の乗せたり、車中で 他の車を褒めたりすると途端に調子が悪くなる…そして、それは数年前、 この車の前のオーナーの霊がこの車に宿ったからだという事を夏の海浜 公園からの帰り道で知った…だから、こうして車にご機嫌を取っている のだが、他から見ると危ない光景に見えるのかも知れない…  愛車に乗り込み、イグニッション・キーを捻る。エンジンはいつもの ように1発でかかった。暫く愛車のエンジンをアイドリングさせて、エ ンジン音を聞く…どうやらエンジンは快調なようだ。  今の車は昔のようにエンジンをアイドリングさせずにすぐ発進できる のであるが、私はわざとアイドリングをさせてその日の愛車のエンジン の様子を耳で聞き分けるのである。  「んじゃ、行きますか!」  私は、セレクト・レバーを”Dレンジ”位置に入れ静かに車を車庫か ら出した。  そのまま環状7号線にはいる。  そして目黒通り,環状8号線を経由して第3京浜道を走り、首都高速 をベイ・ブリッジ経由で大黒パーキング・エリアに行くのが、私のほぼ 毎週の習慣である。  …別に特にこの経路を取る必要はないのだが、巡航速度80キロ以上 で1時間程走れるルートを探していたら、たまたまこうなっただけであ る。  一頃は第3京浜でも、追い越し車線を裕々ととばす事が出来たが、今 では最近の車の性能が格段に上がったので、追い越し車線を余裕で追い 越していく他の車を横目で見ながら、走行車線を運転している。  時々追い越し車線に出て他の車と張り合う気になるが、元来臆病な性 格が災いしてか追い越し車線に入っても、すぐにまた走行車線に戻って しまう。  …なんだかんだと言っている内に、愛車はベイ・ブリッジを渡ってい た。  大黒パーキング・エリアに降りて休憩する。ここのブランデー・ケー キが大のお気に入りだ。  一心地つけて愛車を発進させる。  今日は天気がいいのでちょっと寄り道をしようと、ベイ・ブリッジを 再び渡り、山下公園出口から降りた。  そこから山下公園には向かった。  山下通りに行くと、そこは既に他の車で一杯だった…その中を、私は 空いているパーキングエリアをなんとか探し出して愛車を止め、車外に 出た。  私が車を従列駐車させているとき、私の前にとまっていた黒い外車か らサングラスをかけた体格が立派な男が降りて、私の顔をちらりと見る と、私に背を向け海側と反対方向にゆっくりと歩いて行った。  私は、その後ろ姿を恐れながらも、半ば憧れの目を以て見送っていた。  見回すと、私の周りの車は殆ど外車ばかりであった。  そして、私はぶらぶら暖かい日差しを楽しみながら、埠頭の突端に向 かって歩いて行った。そして、暫く埠頭の突端で暫くボーッと座り込ん で潮風に当たっていた。  やがて、私は大きな伸びをすると尻の埃を払い愛車のある場所に戻っ て行った。  私は愛車に乗り込み、イグニッション・キーを捻ろうとした。  …が!その時!!  「危ない!!!」 と、女性の悲鳴に近い絶叫が耳元でしたかと思った途端、目の前が真っ 白になった。  更に、座席が前に倒れ込み私の身体をハンドルに押しつけた。  そして、前の方で轟音が轟き、車が一瞬宙に浮いたかの様な感じがし たかと思うと、途端に下に叩き付けられる衝撃を覚え、私は胸をハンド ルに押しつけられ、息が出来ないほどであった。  …私はいったい何が起こったのか訳が判らなかった…  その一瞬の出来事は、ほんの物の2,3秒の事であったのだろうが、 私には1分も2分も掛かって起きた事のように思えた…  私をハンドルに押さえつけていた座席は、私が上体を起こすと同時に 跳ね上がった。  正面を見るとそこには一面にひび割れたフロント・グラスがあり、ひ び割れて歪んだガラス越しにボンネットが跳ね上がっていた。  ドアを開け外に出ようとしたが、ドアが硬くなかなか開かなかった。  体重を掛けて押すとドアが開いた。  外に出ても、私は何が起こっていたのかが判らなかった…ただ、目の 前には、ボンネットを開け前方をメチャメチャに破壊され、所々竹を割 ったようにささくれだっている愛車と、その前にとまっていたであろう 火炎を上げている車の残骸があった…  その光景を、私はただ呆然と見ていた。  そして、ようやく駆けつけてきた警察官に保護され、救急車で病院に かつぎ込まれた…しかし、私は多少の軽い打ち身だけでかすり傷一つも なかった。  …数日後、私は警察に呼ばれた…  事情聴取を取った刑事は傷一つ無い私を見て、奇跡だとか言っていた。  刑事の話しによると、私の前に駐車していた外車は、以前から電気糸 とガソリンタンクの欠陥が指摘されていた車両で、それを車泥棒が盗も うとしてエンジンをスタートさせたところ、漏れていたガソリンに引火 して、突然爆発したそうだ。  目撃者の話しによると、前の車が爆発する前に私の車はボンネットを 跳ね上げたとの事。  爆発で吹き飛んだ破片は殆ど愛車のボンネットが吸収し、車内には被 害が全く無かったのである。  その後、警察から現場検証と調査が終わったので車を引き取るように との連絡があった…しかし、愛車はもう修理が出来ない状態であったの で、やむおえずディーラーに引き取って貰う事にして、私は愛車に残っ ている鞄やらなにやらを引き取りに行った…  真っ赤な夕日を浴びて、警察署の片隅に置いてある愛車。  私は、愛車を愛しげに撫で回していると、自然に胸にこみ上げる物が あり、涙が留めどなく溢れてきた。  「ありがとうな!」 私は流れる涙を拭おうとはせず車の運転席に入り込み、ハンドルに額を 当てて泣いていると、  「いいのよ…」 と女の声がした。  助手席を見ると、いつぞやの彼女が澄まして座っていた…  「いいのよ」 と彼女はまた言うと、私の肩に優しく手を掛けた。  「いいのよ、私はもうダメ…でも、悲しまないで、いずれはお別れし なきゃならなかったのだから…」  「でも…」  「ううん、何もなくても、もうじき貴方と分かれなきゃならなかった から…私はこうして貴方の役に立てて嬉しい、貴方は私を大切に扱って くれた…それで十分よ」  彼女は悲しげな表情で首を横に振った。  「俺に…俺に何かできる事はないのか?」  「いいのよ…もう…」  いつの間にか彼女の目も潤んできて、そしてまるで真珠のような大粒 の涙をポロポロと流しだした。  そして、うつ向いていたが、何かを思いついたように顔をあげると、  「…そうね、もしよかったらエンジン・プラグを1本抜いて貴方の新 しい愛車にさして下さい…そうすれば、私の心は貴方の新しい愛車と一 体になるわ」  私は、だだしゃくりあげて頷いているだけであった…  彼女の姿が、だんだんと薄くなっていった…そして、私の目にその姿 がはっきりと認識できなくなると。  「…さようなら…いままで大切にしてくれて有り難う!」  と、言い残して彼女は完全に消えてしまった…そう、完全に!  その後、私は車を引き取ってくれたディーラーに無理をお願いして、 愛車のエンジン・プラグの内、綺麗な物を抜いて貰った。  私はこの事件以後、暫くショックで家族がいくら勧めても新しい車を 買う気がしなかった。  …そして、半年後…  ようやくショックから立ち直った私は、新しい車を買った。  それは、最新式の車であり、車種はスカイラインであった。  私は、またディーラーに無理を言って、彼女の遺言を実行した…する と新しい車は、まるで彼女がいたときのように褒めるといいエンジン音 をたて、若い女性が助手席に乗ると途端にグズるようになった… 藤次郎正秀